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合格発表の思い出を語りたくなりがち


以前もそうだったのですが私の場合は受験の思い出が勉強よりも家族の思い出と直結している気がします。

大学の合格発表の思い出は2回あるはずですが、2010年のほうはおそらくあと1年かかることを覚悟していたのであまり記憶にございません。高校生のうちに高校生しかできないことをやるべきだとは思っていましたが、受験勉強は私にとって「高校生しかできないこと」ではなかったので優先順位が低かったです。
あと今回書くことは確かInstagramで以前投稿したことがあります。

受験生の頃

父方の祖父母と同居だったのですが、私が生まれた時に既に高齢だった祖父は早くに亡くなり、祖母と両親と過ごした時間が長いです。高校を卒業したので本格的に受験勉強を始めたのですが(???)、母がその前年の12月から入院中で、父は仕事をしていて、祖母と過ごす時間が長かったです。
本日のサムネイルは今までも何度か登場している受験生の時に使っていた手帳(無印の3月始まりマンスリーウィークリー)です。浪人生の頃はおそらくあれ以上に自分のためだけに時間を使えるときはなかなか人生の中で存在しないと思うのである意味贅沢だったとともに、家族や先生方からのプレッシャーがかなり重かったです。
2010年のうちに母が無事に退院し、高校3年生のときよりはかなり勉強に集中できる環境になりました。
そして自分がインフルエンザに感染しようが悪天候で電車が止まろうが今回はどこかの大学には合格しないといけないので、本音を言えば前期試験が終わればもう勉強したくないので、後期はセンター試験(当時)の結果のみで合否が決まる別の国公立大学に出願していました。私立大学は合格しても行ける経済状況ではないので受けていません。

合格発表

2011/03/10の正午が合格発表で、この日は祖母の80歳の誕生日でした。出雲市は遠方なので実家のパソコンで合格発表を閲覧しました。
現在は合格発表のwebサイトはもう少し現代的(?)になっていますが、当時は現代で俗に言うガラケーで合格発表を閲覧する人が多かったので、ガラケーサイトらしいかなり簡素で動作の軽いページでした。アクセスしづらくなる心配はそこまでなかったのですが、なんとなく落ち着かず朝10時くらいに既にページを開いて無意味にF5(更新)を連打していました。
無事に自分の番号があることを確認し、家族(前年は普通に仕事していた父も休みを取っていた)に祝ってもらい、高校にも報告に行きました。

前期試験で無事に合格しましたが、仮に不合格だったときに何があっても後期試験では合格できるように備えたことが最悪の形で現実になったことはもはや語るまでもないでしょう。実際に、後期試験が急遽中止になり、センター試験の結果のみで合否が判定された同級生もいました。
実家も大学も西日本だったのであまり大きな影響はなく、今ではいろいろな意味で不可能かもしれませんが当時は現地に赴くしかなかった入学手続に行きました。合格の喜びは早々に吹き飛んでしまいましたが、世の中がどうあろうが時間は進むしかないというのも感じていました。報道もCMもセレモニーも自粛しながらひっそりと開業していた九州新幹線を岡山駅で見たことがなんとなく当時の自分にとっては大きな希望でした。

実家を出てからのこと

引越しの準備などであっという間に時間が過ぎましたが、2011/04/01に出雲の実家を出て京都での生活を始めることになりました。シャーマンキングのオタクの執念こわっ
このときの見送りが私が最後に見た祖母の姿になりました。

元々持病の多かった祖母はその一つが急激に悪化して2011/04/11に亡くなりました。親が私に連絡した時には既に間に合いませんでした。私が大学に入学した直後で、講義や実験など本格的な大学生活が始まった最初の週でした。父方の祖父は高齢で、母方の祖父母は若くして私が義務教育を受けている間に病死しているので、私は未成年(当時)にして祖父母4人を失いました。京都に戻ってポストを見ると、2011/04/09消印の母からの手紙(母はわりと筆まめなタイプ)が届いており、「3人とも元気で過ごしています」と書いてあったので本当に急なことだったようです。
実家を出てから祖母と二度と会うことができなかった悲しみも大きく、大学生活をなんだかうまく始めることができなかったようにも思いますが、今では浪人したことで祖母と最後の1年間を過ごせたと前向きに捉えています。



Posted in その他日記

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