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受験の思い出を語りたくなりがち(特に補習科について)


本日のサムネイルは高校、浪人(補習科)、大学の学生証です。まだ痩せていて喉仏が目立っていた頃なのでこのくらい痩せたいです(趣旨が違う)。

高校生の頃は何をしていたか

高校生には高校生じゃないとできないこと(部活動とか学校行事とか)が色々ありますが、受験勉強は高校生じゃないとできないことに含まれないのではないか、高校を卒業してからでもできるのではないかとぼんやり思っていました。前職でも慎みなく生徒にそれを言う程度には思っていました(?)。
それとは関係ないですがシャーマンキングの完全版が出て、最終話の[ネタバレ自主規制]にショックを受けたりいよいよ京都へ行きたいという思いが強くなったり、高校3年生の12月に母が入院して長期の入院になる見込みだったたり、同居の祖母(父方)と父だけを地元に残して進学するというのもという気持ちだったり、そんな感じで一つも大学には受からず高校を卒業しました(出身校はほとんどの生徒が国公立大学を受験するので卒業式の時点では進路が決まっていないのが普通でしたが…)。

祖母はなんというか、なんやかんや嫁である母と仲が良く、母が入院しているのを心細く思っていたので「(孫の私が)家にいてくれてよかった」などと言っていました。祖母は私が大学に入学してからまもなく亡くなったので、私にとっても祖母と最後に過ごせた1年間になりました。なんか入試より家族の話になっていますが気にしないでください。

補習科

私は予備校にも行っていないし宅浪も仮面浪人(そもそも大学に一つも受かっていない)もしていません。
幼い頃から大学入学まで塾や通信講座や家庭教師のお世話になったこともなく、しいていえばそれなりにお金がかかるのに習わせてもらった割にちっとも上達しなかったピアノについては家族に申し訳ないと思っているくらいです。大学に行ったり私立学校に勤務したり資格試験に挑戦したりして、勉強にお金がかからないのはやっと一種の才能だと自覚し始めました。そんなわびしい自覚はいらないかもしれません。

補習科は全国的にも珍しく島根以外だと岡山・香川などにしかないらしいですが、高校に併設された別棟に高校の制服で(学校によっては私服の場合もある)通って高校の先生方の授業を高校と同じ7限まで受けていました。いわば公立の予備校のようなもので、学費も一般的な予備校の半額未満でした。ちなみに島根には補習科対抗ソフトボール大会ができるくらい多くの学校に(といっても5つくらい?)補習科があり、私の出身校では近隣の補習科のない高校の卒業生も受け入れていました。補習科で引き続き面倒を見ることができるし経済的な負担も大きくないからなのか、わりと出身校の先生方は浪人を前提に面談で進路を勧める傾向があったように思います。
補習科で良かったのは俗にいう強くてニューゲームできるところと志望校のレベルや偏差値を問わず受験にもう1年かけたいという志を持つ同級生が集まっているところ、補習科で良くなかったのは建物が古かったところと現役生からの視線が痛いところと現役生と一緒に模試や二次試験対策講座を受けるところと中学までの同級生に制服でいるところを絶対に見られたくないところでした。
建物は古過ぎて私が教育実習に行った年に取り壊されました。しかも教育実習の期間中でした。悲しいですね。
補習科に行っている間になんとか母も退院できました。

補習科に入ってから無印の3月始まりマンスリーウィークリー手帳を使い始め、受験直前に「数学」「化学」「生物」のまとめをメモページに作っていきました。もう12年前の記憶というのが怖いですね。
お笑い雑誌についていたロザンのポストカードを挟んで持ち歩いていましたが、合格してからは2人とも留年を重ねているのでかえって縁起が悪く感じてしまいました(失礼)。

受験そのものについて

2010年については思い出したくもありませんが、このときに撮影した時計台の写真を次の1年間携帯電話(ガラケー)の待受にしていました。
2011年は「もう一年あれば大丈夫」という家族と先生方の期待を背負っているプレッシャーに押しつぶされそうでした。受験そのものについてはわりと休み時間に大学構内を見物する程度に余裕がありましたが、2日間の夕方までにわたる試験を受けて当日中に帰宅したら日付が変わる直前でした。出雲って遠いですね。


Posted in その他日記

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