俗に言うタレント本の類(カズレーザーさんのクイズ本、サンシャイン池崎さんの猫の本、バカリズムさんの都道府県の持ちかたなど)は今までも何冊か持っていましたが、いわゆる写真集を購入するのは初めてです。
中山咲月さんとフォトエッセイについて
「仮面ライダーゼロワン」のジェンダーレスAI・亡を演じておられたときから、滅亡迅雷.netの一員で悪役側の仮面ライダーとして、登場は最後にもかかわらず他の構成員(役柄的にこの表現が適切かと思います)に勝るとも劣らない存在感とかっこよさに惹きつけられました。厳密には仮面ライダーゼロワンの役柄としての写真集は持っているのですが、特定の芸能人の写真集を買うのは今回が初めてです。私は通販で注文しましたが、近場の書店で「女性写真集」のコーナーに並んでいたのはなんともいえずモヤっとしました。
今までの映画やドラマでもジェンダーレスな役柄や男性に見間違えられるような女性の役柄が多く、本人が性別に関する違和感を述べられることもあったのですが、このフォトエッセイの出版を機にトランスジェンダーと無性愛者を公表されました。中山咲月さんは本名で活動しておられますが、元々性別問わず名付けられるような名前なので改名などは考えていないと述べておられました。今まではトランスジェンダーの方が自分の自覚する性に合わせて改名することが多かったですが、「元々中性的な名前でその必要性を感じない」という方も若い世代を中心に今後は当たり前になっていくように思います。無性愛者については…「恋愛ができない」というより「恋愛に興味がない」といったほうが適切な方には私も今まで何人か会いました。思うところは後で書きます。
また、ご本人も積極的に公表しないものの特に隠してはおられないこととして、高校は女子校に通っておられたそうですが、男子校・女子校のような男女別学では性別による役割分担などの偏見がなく、共学よりかえって性別に関してフラットな意識が育つという方もいます(※諸説あります)。
フォトエッセイでは6つのコンセプトの写真とともにさらに内面に踏み込んだ内容でしたが、「トランスジェンダーで男になりたい」というより「性別にとらわれない自分自身でありたい」という思いを感じました。違う解釈の方もいらっしゃるかもしれませんが、私はそう感じました。公開されている写真から言えることとしては、男性が男性として着るセーラー服は本来の用途のはずなのですがとにかく美しいです。
社会的なあまり難しいことは言えませんが、最近は動物をモチーフにしたキャラクターだと、リラックマ・すみっコぐらし・ぐでたま・コウペンちゃんといった、作者が明確な性別を設定していないキャラクターが人気の傾向があるように思います(ちょっと自分が好きなものを列挙してしまったところはあるけれど…)。特に性別について深く考えたり悩んだりしたことはなくとも、無意識に多くの子供から大人までが性別のない世界に癒しを求めているのかもしれません。
性別が曖昧な私について
私は今まで折に触れて述べてきた通り、心身両方の性別がかなり曖昧です。以下、中山咲月さんの「無性愛」に触発された異常に長い自分語りです。近い考えの方に「自分は1人じゃない」、全くそういう概念を持ち合わせていない方に「こういう考えや心身の状況を持っている人もいるのだ」と思ってもらうのが目的で、考えを押し付ける意図はありません。
まずはわかりやすく身体について、多くの人は第二次性徴でより自分の性別らしくなっていくらしいですが、私は男性らしくも女性らしくも変化していきました。具体的には「喉仏が出てきて一夜にしてほぼ1オクターブ声変わりする」「骨格ががっしりする(肩幅約45cm/ほぼ男性平均)」「身長157cm(これは女性平均に近いですが男性にも珍しくない範囲だと思います)」「体脂肪が全体的に多くなる」「男性特有の朝の生理現象が時々起こる」「女性特有の月の生理現象が不規則に起こる」…我ながら意味不明ですが、私自身は精神的になんとか両方に追いつこうとして成長し、家族もこれを(たぶん全部は知らないと思いますが)当たり前のことのように受け入れていました。制服の採寸、苦労したなあ…。もしかしたら生殖機能やホルモンバランスに何かしらの異常がある(検索してこれっぽいと思う疾患はある)のかもしれませんが、おそらく放置しても命に別状はないと思うので放置しています。
精神的には両方の変化に追いつこうとして、典型的な第二次性徴を迎えた人と比較したらかなり歪な発達をしたと思います。無理に女性に寄せようとしたり男性に寄せようとしたりしたせいで苦痛を感じたこともありますが、今となってはかえってどちらに偏ることもないありのままを受け入れる覚悟ができました。あと私は自力でできることはできる限りなんとかしますが、自力でなんともならないことに関してはないものねだりな傾向が強いので、たぶん逆の性別に生まれついていても、やはり無理に女性に寄せようとしたり男性に寄せようとしたり(以下略)。その証拠に、面倒ですが女性と決めつけられるのも男性と決めつけられるのもイヤです。実はインターネット上での活動のメリットとして、「その気になれば自分の個人情報の一つとして性別を秘匿することができる」というのも私にとっては大きいです(私の場合リアルでも秘匿する自信はそれなりにあるのですが…)。今やその性質上記載が必要な健康保険証を除けば、運転免許証には性別の欄がなく、マイナンバーカードはスリーブで性別が隠れるようになっているので、それなりに保護されるべき個人情報の一つとして扱われているように思います。
極端な話、この世に同じ人間は1人としていないように、性別に対する概念や価値観はなんとなく社会で共有しているように見えて、本当は全く同じ考えの人は1人としていないのかもしれません。カズレーザーさんのおっしゃるところの「みんな異常だしみんな普通」ということだと思います。
カズレーザーさんといえば(唐突)、バイセクシャルを”カミングアウト”していることで知られていますが、厳密には本人の感覚としてはカミングアウトではなく、「すべての人間がバイセクシャルになる可能性がある」という主張です。私もそう思います。
例えば、東京オリンピックで金メダルを獲得しただけではなく、「編み物男子」としても有名になったイギリスのトム・デーリー選手は、プライベートではかつて女性との恋愛も経た上で、男性のパートナーと結婚し、子供も育てておられます。
しかし、これでは中山咲月さんの「無性愛(asexsual)」とは真っ向から反する概念になってしまいます。私は中山咲月さんに対して恋愛感情に近い憧れを持っていますが、曖昧な性別の私からトランスジェンダーの中山咲月さんに対する感情は同性愛や異性愛に簡単に分類できるものではないと思います。「すべての人間がバイセクシャルになる可能性がある」というよりは、「すべての人間がすべての人間に恋愛感情を持つ可能性があるし、同じように持たない可能性がある」といった考えです。恋愛感情という概念そのものも全く同じ人は1人としていないでしょうね。その定義に含まれる性的欲求という言葉も解釈が難しいですが、狭い意味で「子孫を残したい」「自分の遺伝子を残したい」という欲求だとしたら、私には全くありません。ちなみに人間としての広い意味での性的欲求、性的な魅力を感じるという意味でいえば、それこそ中山咲月さんのような性別にとらわれない魅力を持つ方に性的な魅力を感じます。「中性的なイメージの方に性的な魅力を感じる」って矛盾しているし相当こじらせていますが、仕方ありません。
ここまで書くと「既婚者じゃないのか」と反論されそうですが、ぺぬ(配偶者)に私の第一印象を聞いたら「同性だと思っていた」そうなので問題ないですね(!?)。運良く戸籍上の性別が異なっただけです。私の勝手な理想論ですが、異性愛者か同性愛者かにかかわらず、相手が逆の性別でも一緒にいたい相手かを自問自答して、それでも一緒にいたい人をパートナーにするのが理想だと思っています。時代の流れにかえって反するかもしれませんが、例えば「相手が同性なら自分たちの子供ができないからイヤだ」と思うなら、相手に異性としてではない人間としての魅力を感じているかを自分にきちんと問いかけたほうがより幸せになれる気がします。
中山咲月さんは女性の親友と同居していることを公表していますが、それこそ無性愛者でも家族になれるほど信頼関係が築ける相手がいて、恋愛感情や性的欲求が持てないことをひっくるめて理解し合えるパートナーがいたら結婚はできると思っています。もし同性婚が可能になったら、自覚としては同性愛者ではない方も救われる可能性があると考えています。
私はぺぬが本当はこんな私のようなとんでもない価値観の人間とではないもっとまともな結婚ができたのではないかと思い悩んで家出したことがあるのですが、私を理解してくれた相手に対してあまりに身勝手な行動でした。反省しています。
LGBTQ+というけれど
私は世の中の多数とされるシスジェンダーの異性愛者でもなければ、セクシャルマイノリティと言われるLGBTQ+もピンときません。「身体の性別の区別はあっても、精神の性別の概念は1人として同じ人はいない」「全人類がバイセクシャルになる可能性を持っている」と思っているので、LとGはBに内包される概念、TとQも自らの性別に疑問を持っているという意味では極めて近い概念だと思っています。疑問を持ち始めたら止まらず、生涯かかっても答えの出るものではないと思っています。マイノリティどころか唯一無二です。しいていえば自分の名前は割と性別が特定されうるものなので、親の名付けを尊重しつつ中性的な名前を便宜上名乗りたいとは思わなくもないです。
本当はこの世に全く同じ人が1人としていないのと同じように、マジョリティとかマイノリティとかいう次元ではなく、概念を細かく突き詰めていけば1人1人違うものだと思っています。
最近はマイノリティの苦悩などにスポットが当たることが多く、中山咲月さんもその苦悩を「無性愛」で明かしています。私もそういった苦悩があった時期もありましたが、今の私は、どういうわけか、
「男性」「女性」の枠にとらわれて、男女で恋愛や結婚をして子供を産んで育てるべきと思い込んでいるマジョリティとされる方こそ、より多くの悩みや苦しみを抱えているように思っています。
まとまりのない長文で申し訳ありませんが、やっと書きたいことが書けたように思います。今まで折にふれてそれらしいことを言ってきたのでカミングアウトというほど大層なものではなく、決して私の考えを押し付けるものではありません。「世の中にはこういう人もいる」と知ってもらうためのものです。